正しい歴史認識

ここでは、「 正しい歴史認識」 に関する記事を紹介しています。

頭痛を与えるかもしれないので、 信仰心のない人は読んではいけません。



あ と が き(小さな誇り)

 私達は元より歴史家ではない。中小企業の経営者である。執筆した内容にはできる限り正確を期したつもりであるが、調べれば調べるほど史実は深淵であり、一部には誤りがあるかもしれない。執筆を終えて、自分は一体何をしているのだろうと思う。浅学非才を顧みず、膨大な資料にあたったこの数ヶ月間は、仕事そっちのけの日々であった。家内や子供には、その分迷惑がかかることと思う。しかし、執筆を終えて、今、自分が妻と一緒に暮らし子供を抱いてやれることの幸福を心底思う。

 筆者の祖父は、陸軍砲兵隊の少尉として昭和12年11月、上海郊外で戦死している。聞くところによれば、祖父は、双眼鏡で敵陣を観察中に、物陰に隠れていた中国の狙撃兵に心臓を撃たれ一言も発する事ができずに落命したそうである。祖父は高級将校ではなかったし、子供以外にこれと言って名誉も財産も残さなかった無名の軍人である。今の世の中からは全く忘れ去られた遠い過去の人であろう。

 戦争の事についてほとんど語ることのなかった祖母が、以前、私に語った事が一つあった。昔だって、しょうゆを飲んでわざと体を壊して戦争から逃げた人だっていた。けれど「おじいさんは、お国の為に『志願して』人のいやがる戦地に行った」という事だった。
 「お国の為に自らの意志で」、その一言だけが、あとに残された祖母にとっては「小さな誇り」であり支えだったのだと思う。

 祖父とは言っても、享年30歳であった。私はすでに、祖父の年齢をはるかに超えてしまった。私は祖父に呼びかけたい。あなたがいてくださったおかげで、今、あなたのひ孫は、私の腕の中で安らかに眠っております。どうかこれからも、この子をお守り下さい。

 私を突き動かして止まないもの、それは我々の祖先に対する、言葉で言い表せない、熱い思いである。戦闘中に倒れた人、密林で食べ物も無く病死した人、冷たい海に沈んだ人、終戦後シベリアに抑留され過酷な条件下で病死した人、戦犯として処刑された人、みんな敬愛してやまない我々日本人の祖先である。私達は、死んで行った大勢の祖先たちの、その無念を知るが故に、その無念を知っている者が「少なくともここに一人いる」と言うことを、死んでいった人達に呼びかけたかったのである。

 この文章を書いたことには、さまざまな異論もあるであろう。私は先祖達の目から見たら崩壊しつつある祖国日本に問題提起するためあえて一石を投じたのである。

 そして我々の文章に触れたJCマンの一人でも二人でも私達の思いを感じる人が出てくれれば、もはや何も言うことは無い。その方々に心の底から「有難う」と申し上げたい。亡くなられた方々の名誉を回復することは、もはやできないかもしれないが、それでも私は申し上げたい。「皆さん、本当にご苦労様でした」、どうかこの思いが天上の皆様に届きますように。「小さな誇り」は、私達の中で今も確実に生き続けております。祖先の血汐が私の身体を流れるように。




一から拾い整理していくには膨大な時間を要する。

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このブログは、
少しでも正しい整理思考を広めようと、
影響を与えるべく何かをしようとしたのがきっかけで書き始めたのでした。
一人でも多くの人の目を覚まし、
太平洋戦争にあった善悪感を払拭して自分たちの国とその未来を思うことを願う。



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2)日本を取り巻く危機

 あるアメリカ人は、村山総理がアジア諸国を謝罪して歩いている事を聞いて、「なんで日本が50年も前のことを、いまさら謝っているのか理解できない」と言った。(同様の言は、謝罪されたアジアの首脳からも出ている。)そもそも村山(社会党)内閣ができたのは、平成5年、一部の自民党議員が党を割って新進党を結成し、その為自民党が下野したからである。返り咲きを狙った自民党は、社会党と手を組むという離れ業をやった。社会党は、与党になったとたん自衛隊、安保を容認せざるを得なくなり、革新政党としての性格を埋没しかかった。その為、何とか社会党の独自色を出したくて、おりしも戦後50年にあたり、「謝罪と補償をする」かのように受け取れる愚かな政策を打ち出した。自民党は、社会党に政権離脱されては困るのでこの要求を飲まざるを得なかった。

 これが、戦後はすでに終わったと思っていた人達にまで、金銭的欲望の火をつけてしまった。現在では、アジア諸国だけではなく欧米諸国からも戦後補償を要求される事態に至っている。特に平成11年(1999年)7月、アメリカ、カリフォルニア州議会で、「第二次大戦中の強制労働について2010年まで損害賠償の請求ができる」と定める法案が成立した。これに基づいて、現在、日本企業をターゲットにした損害賠償訴訟が次々と準備されている。戦後50年以上たって、どうしていまさらこのような法案がカリフォルニア州議会で成立したかと言うと、法案成立の背景には、国際的な中国人の組織が、南京虐殺に基づく日本の非道を根拠に世界各国に働きかけているからだと言う。欧米諸国からの、「戦時中の捕虜に対する強制労働」に基づく日本企業への損害賠償請求額は、100兆円を超えると言う試算もある。このままでは、日本経済はますます衰退するであろう。少なくとも更なる不況とリストラの為、新たな犠牲者が多数出る日は遠くないかもしれない。

 「何を馬鹿な」と思われるかもしれないが、アメリカを甘く見るのは間違いである。マクドナルドのコーヒーが、ドライブスルーでこぼれただけで、賠償金1億円の判決が下る国である。物事は、自分を基準に考えていると大変な墓穴を掘る。しかも原告の裏には、以前同様の補償を起こすことで多数のドイツ系企業から多額の「和解金」をせしめた訴訟のプロがついている。アメリカは日本の想像を絶する訴訟社会であり、訴訟で金儲けを考える者が多数いるから厄介なのだ。

 しかし、これは「訴えていただければ、なんらかの補償を検討します」のようなことを言った日本政府が自ら掘った墓穴である。謝れば謝るほど、無制限に要求が突きつけられ、もはや日本は片足を底無し沼に踏み入れたと言ってよい。逆に日本は、戦時中外国から受けた日本兵捕虜に対する虐待や、民間人の大量虐殺に対し、欧米諸国に何ら謝罪も補償も求めていない。この仕組みは、教科書問題の根幹であるから後で説明する。

 政治家は、あてにならない。もとはと言えば、「社会党」が独自色を出すために、全国民の利益が犠牲にされたのである。社会党は、今や国民に見放され見る影もないが、彼らの残した禍根は、長く日本国民を苦しめるだろう。彼ら政治家は、以下の理由で日本国の政治家としての資格が無い。

1.自分の国、および日本国民を本気で護ろうという決意が無い。

2. 歴史に関する無知。筆者はこの件で、「無知は罪悪」だと知った。

3. 国際感覚、ないしは国際的な経験の欠如。言いかえれば、世界の荒波にもまれていない「井の中の蛙」である。井の中の蛙であるが故に、井の中の常識でしか物が考えられない。それは昨日まで、「周囲の状況が時代と共にどんなに変化しても目をつぶり、平和憲法にさえすがっていれば、平和でいられる」と盲信する人達が、急に責任ある立場になってしまったためであり、幾分かは同情の余地もある。むしろ党利党略で動いた一部の保守政治家こそ、もっと「国民の利益」を守ることに視野を向けるべきだったのではないか?

3)「歴史認識を共有する」と言うことの危うさ

 立場が違えば、ものの見え方が変わるのは当たり前である。例えば西部劇では、白人はヒーローであり正義の開拓者、インデアンは残酷で非文明的であり、最後にはコテンコテンにやられる悪者である。しかし、これは白人から見た歴史観に過ぎず、インデアンの側から見れば、白人は先祖伝来の土地を奪いに来た侵略者である。ヒーローでも正義でも何でもない。立場が違えば見方が違うのは、むしろ当たり前のことである。しかし、お互いの主義主張が異なることを認識しつつも互いに尊重しあう、あるいは礼節をもってお付き合いすることは充分可能である。中国や韓国が、「歴史認識を共有せよ」と言う意味は、彼らと日本がお互いに譲り合って共通の歴史認識を「新たに作る」訳ではなく、日本が100%譲歩して彼らの歴史認識を受け入れ、彼らに服従することに他ならない。その目的は、言わなくてもお分かりであろう。

出展:わが子に伝える誇りある近代史



世界は平和ではないし、人類社会は未熟なままだ。
我々は現実的な武力社会の中にいるし、様々な国際問題は国として力を持たなければ解決できないほど利己的で粗悪。いくらでも戦争が起きる可能性が残ってる。平和ボケして見下されては侵略される。現実は甘くない。


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第3話 日本国民への教育(教科書)の在り方

1)日本を見直そう

 自虐史観と言う言葉はあまり好きではない。しかし、筆者は今の歴史教科書が、「著しくバランスを欠いている」、あるいは、「著しく日本に対して悪意を持って書いてある」と考える。と言うよりも、教科書や副教材を書いている人間は「一体どっちの味方なのだろう?」と首を傾げっぱなしである。ひょっとしたら中国人や韓国人の学者が日本名で書いているんじゃないか(?)と思えるくらいである。この教科書で、本当に自分の国、あるいは自分自身を温かい目で見られる心豊かな子供が育つだろうか?もし教科書会社が、我が国の歴史、文化、伝統と言うものを「憎む」気持ちを子供たちの心に育みたいのなら、現在の歴史教科書は、「誠に適正」であると言える。しかし、自分の国をそんなに苦しめて、一体、どんな未来が待っていると言うのだろうか?

2)現在の、バランスを欠いた歴史教科書が、子供たちに与える影響について

1、   先祖を否定することは自分自身の命の源を否定することに他ならない。これは、現代の子供たちが、「自己肯定感」を持てない理由である。(注1)

2、   国家は人民を抑圧する悪と規定し、社会の絆の破壊しようとする。これでは、人は大勢の人に支えられて生きているということがわからない。すなわち、子供たちの「孤独感」、「疎外感」を生む。

3、   またこれでは逆に、人間社会において自分も一隅を照らす構成者であり、構成者であるがゆえに何らかの責務を果たそうとする、「健全な公共心」も破壊する。結果、人間を「自己の利益の追求」のみに走らせる。自分さえ良ければ何をしても良いと言う、「度を過ぎた利己主義」を助長する。(注2)

4、 残虐で目を背けたくなる記述の連続。「おまえの家は、先祖代々極悪人の家系」だと言われているようなもの。このような極悪人であった先祖たちと、自分は、無関係だと思いたい。一方、どうせ悪人の子孫なのだから悪い事をするものしかたがないという、犯罪意識の低下を生む恐れがある。

5、  人類の歴史を、階級闘争の歴史とし、子供たちの不満と闘争心をあおる。しかし、根底に「感謝の気持ち」がなければ、いかなる人間関係も好転しないのは、健全な社会人なら誰でも思うこと。このような、「反逆的思想教育」を受けた若者が、実社会に適応できず就職先が見つからない、あるいは、就職してもすぐに挫折し、無職のままぶらぶら過ごし、結局犯罪に走る実例が後を絶たない。(注3)

 

(注1)少々古い話しだが、昭和60年8月25日産経新聞に載った一つのインタビュー記事を引用する。語っているのは、長らく少年院で非行少年の更正指導にあたってきた倉科茂氏である。

「私は少年院で仕事をした38年間に、ご先祖様を大切にして仏壇に手を合わせると言う習慣のある子を一人も見ていません。ですからご先祖の事を子供に話してやりなさいと言うんです。おじいちゃん、おばあちゃんは貧乏で借金したけど、こういうところは偉かったと言う話しを、多少オーバーでもいいじゃないですか。ボタ餅を作ったら、まずお皿にとってテーブルにのっけて『ご先祖様、お初物ですよ、召しあがってください』と手を合わせる習慣をつけることですよ。そんな簡単な事くらいは出きるでしょう。別に宗教じゃなくてもいいんです。それをすると言う事は、自分が年を取ってから子供に尊敬されるということなんです。」
 このお話に「現行教科書の欠陥」があぶり出されていると言って良いだろう。自分の命は誰でも両親(二人)から貰ったもの。両親はそのまた親である、祖父母から命を貰い育てられた。祖父母の代までさかのぼると誰にでも4人の先祖がいらっしゃる。その無限の先祖の一人が欠けても、自分がここにいることは無い。だから人の命は重い。人は決してみず溜まりから生まれたのではない。親を思い先祖を思う心は、自分自身の命の源としっかりと結ばれるために不可欠であり、これ以外に漂流する現代の青少年が、自己のアイデンティティーを取り戻すすべは無い。誰もが先祖の物語を持っている。そこに小さくても良いから「誇り」を見つけることだ。それが歴史を学ぶ本当の意味ではないだろうか?

(注2) 筆者の個人的な感想であるが、先日あるショッピングセンターの駐車場で家族を待つ間、「障害者用の駐車スペース」と明らかに分るところに、次々と表示を無視して駐車する人が後を絶たないことに唖然とした。これでは本当に体の不自由な人が利用しようとしても全く駐車スペースがない。これでは何の為にこのスペースが確保されているのか解らない。「自分さえよければ人はどうでも良い」という自分勝手な考えは、相当日本国民の間に浸透していると見て間違いない。
 現代の日本には、誇りの感覚がないから恥の感覚もない。いじめが無くならないのも『弱いものいじめが恥ずかしいことだ』という羞恥心の欠如に問題の一端があるのではないか?人間が『わがまま』や『だらしなさ』を自由と履き違えた放任教育でどんどん『動物化』している。我々の子供たちはこのような大人にならないよう、しっかり教育しようではないか。

(注3) 今年(平成12年度)の卒業シーズンには、国立市の小学校で「国旗」を掲揚した校長に対して、児童が「土下座を求める」事件が起きていると言う。「児童の意向を無視した学校運営は、許されない」と言う主張であるらしい。裏で小学生を扇動している大人が必ずいるはずだ。幼いうちから政治色の強い活動をさせられたことが、児童たちの人格形成にどのような影響を与えるのか危惧される。

 現実に、歴史教科書、あるいはその背後にある思想(共産主義)が撒き散らした弊害が、子供たちの間に蔓延してきている。一方、実は子供たちもさる事ながら、大人たちにも自信がないことが、この社会の不安を生んでいる。誰が自信を持って天下国家を子供たちに説き、人の道を示せるだろうか?それは、大人たちも、現在にいたるまでの「自分を含めた国の成り立ち」をきちんと学んでこなかったことに原因がある。過去を正しく受け止められないため、未来に対しても長期的理想や夢を描くことが困難になってきている。長期的視野で国家としても、個人としても明確な目標を持てない為、日々の小さな失敗ですぐ挫折し絶望する。さあ皆さん、奪われた祖国の歴史を取り戻す旅に出ようではないか。自分がどこから来て何の為にここにいるのか、その本当の意味を知る為にも。

出展:わが子に伝える誇りある近代史



真実に到達した者は同じような答えを持つ。


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8)なぜ現在の歴史教科書が、子供たちに悪い影響を与えるのか

 他の国もやったのだから、日本の行為が正当化されると言う訳ではない。しかし、日本だけがアジアを侵略し、また筆舌に尽くしがたい戦争犯罪を行ったかのように受け取れる、現在の歴史教科書は明らかにバランスを欠いており、子供たちに自国の歴史について誤った理解を植え付ける。

 戦時における戦争犯罪は、どこの国が行った如何なる戦争にも存在する。どこの軍隊にも、軍人を相手にする慰安婦はおり、もちろん現在の韓国にも慰安婦はいて軍人割引もある。非戦闘員に対する無差別虐殺ならば、日本側も先の大戦中に80万人以上の武器を持たない女性、子供、老人を含む民間人がアメリカなどの連合軍に殺害されている。(注)

 (注)戦争犠牲者の数について
先の大戦における日本側の戦没者は軍人及び軍属が約230万人。それに対して外地で戦禍に巻き込まれ殺害された民間人が約30万人、国内で原爆や東京大空襲など、米軍機による無差別爆撃により殺害された民間人は約50万人である。(太平洋戦全国戦災都市空襲犠牲者慰霊協会調べ)

 日本の教科書には、「日本が(中国と)宣戦布告無き戦いに突入した」として、自国を非難する記述が見られる。しかし、アメリカは今日まで外国と200回も戦争をしており、宣戦布告をしたのは、そのうちわずか4回だという。これをアメリカの教科書が自国の暗部と非難し、その結果、アメリカ人が後ろめたい思いをしていると言う話しを聞いたことが無い。日本のことばかり悪く書いて、教科書執筆者は、正義の味方のような良い気持ちかもしれない。しかし、世界の常識の中で日本の姿を書かなければ、それで学ぶ子供たちが、「自分たちが世界で一番悪い民族なんだ」と言う劣等感しか持てないのは当然である。そもそも、過去に一度の誤りも犯さなかった民族など世界中のどこにも存在しない。
 ちなみに、昨今の世論調査によると、日本の子供が韓国や諸外国の子供に比べ、最も自己肯定感が無く、自分が将来幸せになれるとも思っていないと言う結果が出ている。
 歴史教育は、自分の国の成り立ちや先祖の活躍を学ぶ「人間教育」である。歪んだ歴史教育と自己肯定感を持てない子供達は決して無関係ではない。「武士道」の著者、新渡戸稲造によれば、「名誉」の感覚というのは「家族意識」と深く結びついているという。先祖に対する誇りを失うことで、子供達は家兄とか家族に対する愛着を失いどんどん孤独になっていく。

 しかも、今日のアメリカの代表的な新聞は、全て「日本は謝罪も補償もしていない」と言う論調一色であるという。我々からすれば、日本はこんなに謝りつづけているのに、どう考えても「必要以上に」謝り続けているのに、しかも、苦しい台所事情にもかかわらず、世界のどの国よりも、アジア諸国のみならず、世界に対してODAを始め国連の分担金やIMFなどあらゆる機会に最も貢献しているにもかかわらず、全くそれが認められていない。水道もいったん引かれた後は、蛇口をひねれば水が出るのが当たり前に思われ、水が出ることのありがたさは忘れられてしまう。隧道を引いた人の苦労と水が出ることのありがたさを実感してもらうには、思い切って一度水を止めることも必要ではないか?出なくなって初めて、世界の人々は日本の貢献を知るだろう。その時初めて日本人が流した汗が報われるというものだ。

 今のままでは、日本人の心理の中に言い知れぬ不満や閉塞感が鬱積してきており、我慢もやがて限界に来るのではないか?原因の一つは、海外のマスコミが、日本のことを何ら正しく伝えていないからであるが、元を正せば、自己の姿を正しく宣伝しない日本側の責任である。少なくとも、間違った報道をされて、それにきちんと抗議しない政府は怠慢ではないだろうか。沈黙は金とか、阿吽の呼吸と言うようなことは、国際間では全く通用しない。相手が間違ったことを言ったら、直ちに訂正を求めなければこちらがそれを認めた事になってしまう。

 アメリカは、内外各地の非戦闘員の上に焼夷弾の雨を降らせて焼き殺し、原子爆弾まで使用して瞬時に30万人を抹殺した。アメリカのやった戦争犯罪は、日本の行ったそれの比ではなく、しかも、誰もその戦争犯罪で責任を問われていない。謝罪も補償もしていない。それは、日本の側から決してアメリカの行為を非難する声が「上がらないようになっている」からである。
 ここが教科書問題の、一つの大きなポイントである。


 原爆使用を含む民間人の大量虐殺は、それを計画し、計画を許可し、民間人の頭上に爆弾の雨を降らせた実行者が必ずいる。ところが、原爆の碑が象徴するように、「過ちは二度と繰り返しませんから」となって、ひたすら被害者が内省し、その怒りが、「虐殺を行った側へ決して向かわない」ようになっている。「日本が悪い事をした罰として原爆を落とされた」、そう言うアメリカの詭弁は、アメリカの利益と安全に基づいた世論操作であり、その主張に嬉々として手を貸す日本人がいることは誠に情けない。しかし、これがこの稿で強調している、「負けた方は勝った方に全ての正義を奪われる」と言うことの実例である。しかし、もしこれで終わらせてしまうのであれば、悲劇はいつか繰り返されるであろう。なぜなら、虐殺をした側に、何らの反省もないからである。「アメリカが、自国の国益のためには、ためらわず武力を行使する性質」はその後の歴史に見る通りである。

出展:わが子に伝える誇りある近代史



団塊の世代ほど、
正しい歴史認識ができてなくて、
論理が支離滅裂であり、
今日の日本経済を破綻にいたらしめるのは日本の中枢が、

「未来を考えない個人主義、人格破綻者の集まりだったからである。」


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5)日本の行った戦争とは結局何であったのか

 マルクスレーニン主義は、共産主義の拡大に貢献するいかなる侵略も「正義」であり「聖なる戦争」であると定義している。共産主義がロシアから満州、朝鮮を通じて南下膨張をもくろみ、中国においても毛沢東に指導された共産党が、蒋介石の国民党軍と内戦を繰り広げつつも(中国内戦の犠牲者は100万人を超えると言う)成長しつつあった状況を認識しなければ、我々の祖先が抱いた「危機感」は到底理解できない。

 明治新政府が驚くほどスムーズに誕生したのは、欧米列強の侵略に対する「危機感」が、国を一つにしたからである。明治時代に日本がとった国策は、めざましい東方膨張をつづけたロシアの南下防止と黒船以来の米英等西欧列強と対等に渡り合う為、まず急速に国家体力(経済・軍事)強化する事に比重が置かれていた。当時の日本には、隣国中国が欧米列強に侵食される有り様をまのあたりにし、「もし亜細亜の地図から中国が消えたらなら、日本以外の世界は全て白人の所有に帰する。その次は日本である。」という危機感があった。それを防ぐには、中国に改革をもとめ日中が共同で強い亜細亜を作る必要があると言う考えがあった。(小寺謙吉著、「大亜細亜主義論」)


第二次世界大戦前


〈中国地図:ニコライエフスク港、通州、蘆溝橋、上海、南京等、事件上重要な大陸の都市の位置を示す〉

 大正6年(1917年)、レーニンに指導されたロシア革命の成功は、列国に強い脅威を与えた。新政権に反対するチェコスロバキア軍がシベリアに追い詰められた為、日本は大正7(1918)年8月、米英と共にシベリアに出兵するが、このあたりから日本の対ロシア政策は、「防共」の性格を持つようになる。

(注) 尼港(ニコライエフスク港)事件について

 現行の歴史教科書には、史実の一面しか伝えず結果として子供たちに偏った歴史観を植え付ける記述が多い。その典型の一つがシベリア出兵に関する記述である。「中学社会 歴史」(教育出版)には、「世界をゆるがした10日間」と副題をつけてロシア革命を賛美する一方、「日本がシベリアでの勢力拡大を狙い、連合国間の協定に違反する大兵を派遣し、撤退したのも最後になった」(下線筆者)と説明し、日本の立場を一方的に悪く子供たちに教えている。このような説明だけを聞いていれば、日本は全くの悪者にしか思われない。そしてそもそもなぜ各国がシベリアに派兵したのか、またなぜ日本がそこに軍を駐留させる必要があったのか、そして日本居留民が多数虐殺された尼港事件について、全く説明が無い。尼港事件における我が軍の奮戦は、書けばそれだけで一冊の本になるほどだが、誌面の制約上要点のみ記述する。
(大正10年、半島新聞社がまとめた「大戦終結世界改造史」の中にこの事件に関する陸海軍全戦死者376名の名簿と、共産パルチザンによって殺害された700名近いの日本人居留民に関する詳しい記録がある。)

 まず現行教科書における根本的な事実誤認であるが、「共産主義革命によってロシア全体が直ちに自由と希望に満ちた国家になった」かのような理解は全く事実に反する。現実には、ロシア政府が流血の革命によって転覆し、地方に至ってはまさに無政府状態が出現した。多数の囚人が送られていたシベリアでは、あったのが牢から出され、これが凶悪な共産パルチザンを形成するに至った。シベリア方面では、まだ(保守派である)ロシア極東総督、ロザノフ中将始めコルチャック提督などが革命派勢力(共産パルチザン)と戦っていた。革命派は、外国勢力追放を叫び各地で外国人の襲撃事件を起こした。

 日本側からすれば、革命派勢力に対抗する「友好穏健な政権」がシベリアに生まれる事は、極東の平和と日本居留民の安全みならず、日本の安全を守る利益につながるものであった。地理上シベリアは、北海道樺太に直結しているからである。
 残念ながら大正9年、オムスクにあった穏健派政府は共産過激派の攻撃を受けて崩壊し、これに伴ってアメリカ、イギリスが撤兵してしまった。そのため均衡を保っていた、日本の防衛線が極度の戦力不足となり、補充の為やむなく第12師団を派兵せざるを得なくなったのがシベリア出兵の実状である。

 大正9年(1920年)1月29日、ロシア極東の尼港(ニコライエフスク)市(樺太とシベリアとの接点にあたる)は、トリビーチンを首領とする約4000人の共産パルチザンに包囲された。当時、ここには約1万5千人のロシア人一般市民、約1000人の中国人、約500人の朝鮮人、及び約700人の日本人が住んでいた。またここを守備していたのは、石川少佐率いる2個中隊と無線電信隊の40名、それから保守派のロシア兵(共産赤軍に対して白衛軍と呼ぶ)合計しても約500名のみであった。共産パルチザンは、策を用いて和睦すると見せかけ市内に入るやいなや、このロシア白衛軍の将兵を捕らえて殺害し、合わせて一般市民の中から「有産智識階級」とユダヤ人を選んで虐殺をはじめた。共産パルチザンは、黒龍江の結氷を破り、有産智識階級を殲滅する為、銃剣で突き刺して次々と凍る流れに人々を放り込んだ。これによって「有産智識階級」とユダヤ人約2,500人が惨殺された。我が日本守備隊は、これを黙視できぬとして共産パルチザンに抗議したが入れられず、敵は逆に守備隊の武装解除を要求してきた。敵は多勢をもって日本守備隊を侮蔑していた。仮に武装解除に応じても、無抵抗で虐殺されるのは誰の目にも明らかであった。やむなく石川少佐以下、約400名の日本守備隊と在留邦人50名の義勇軍は、生死をかけて、数の上では10倍に勝る共産パルチザンに対して市街戦の火ぶたを切った。この戦闘は筆舌に尽くしがたい。追い詰められた日本側は、石田領事以下数十人が燃え上がる日本領事館と運命を共にした。日本守備隊は、河本中尉以下121人の兵士が3月17日まで頑強に抵抗したが、敵は再び策を労して、「山田旅団長の停戦命令」を偽造した。河本中尉は、「停戦命令に従わなかった事が他日国際上の問題となることを心配し」これを受け入れた。ところが結局この121名は投獄され、食事もろくに与えられず日本の救援軍に対する防御陣地構築に駆り出された後、零下30度のアドミラル河岸で両手を針金で後ろ手に縛られたまま共産軍によって次々と虐殺された。残された在留日本人も(この人達は当時商社などに勤めていた一般市民である)、多くが共産パルチザンの手で惨殺された。この惨殺には、中国人と朝鮮人も加わり、日本人の死体の指を切り落として指輪を奪い、斧を振るって頭部を砕き金歯を奪って行ったと言う。以上は、中国人の妻となっていたため難を逃れた日本女性など生き残った人の証言、及び救援軍によって掘り出された戦没将兵の手帳にある戦闘記録による。

 以上のとおり、日本守備隊はいたずらに撤退を引き伸ばしたのではない。撤退するにも撤退できなかったのである。冬のシベリアは海が凍る為、小樽からの救援部隊も容易に近づけず、陸上からの救援も40日を要したと言う。


 これだけ多数の日本人が共産党のパルチザンに殺害された事件は、「一大国辱」として全国諸新聞に報道されていたにもかかわらず、現行の歴史教科書がこの事件に全く触れずに日本の立場のみを悪くするような記述に終始するのは、教科書の執筆者が「共産主義にひとかたならぬ共感、あるいは好意を抱いている」からではないだろうか。
 前述の通り、当時派兵したのは日本だけでなく、各国が共産主義の拡大に脅威を感じていたのであり、どこの政府も現行教科書が記述するような「共産主義革命」を歓迎していない。事実、当時レーニンの過激派政府は、列国のいずれからも承認されていない。日本は、米英と比べてロシアに対する近さが違う。シベリアの赤化は日本本土に対する直接的脅威であった。日本の安全を守ろうとした先祖の行為を、子孫である我々がなぜ責めるのか?
 歴史と言うのはこのように、「立場が違えばまったく正反対の見方」ができるものである。
 日本の子供が学ぶ日本の歴史教科書は、全くと言って良いほどにほんの立場で書かれていない。

 昭和に入ると「防共の自衛的国策」は一層顕著となる。加えて、「欧米列強(白人)の支配からアジアを解放し、日本を中心としたアジア人の共栄社会を作る」という二つ目の意義が、当時の日本の側から見れば確実に存在した。逆にアメリカこそ、西へ西へと領土的欲望を拡大してきた歴史を持ち、その勢いで太平洋の島々を次々と植民地と化し、フィリピンにまで至った第一級の侵略国である。アメリカは、たまたま南北戦争という内戦の為に、他のヨーロッパ列強よりも中国の分割争いに出遅れた。その為時を同じくして、太平洋を挟んで頭角を顕わしつつあった黄色人種の国、日本が、邪魔で仕方がなくなったのである。アメリカは、当時も今も「自国の国益を最優先させる自己中心的な国」に変わりなく、むしろアメリカのほうが、日本を政治的に孤立させ、経済的に封鎖し、人種的に差別することによって戦争に追い込んだと言う証拠は、いくらでも挙げることができる。(注)

(注)

 オレンジ計画(対日戦争に関するシュミレーションは、日露戦争の直後からすでに準備されていた)、土地所有禁止法、排日移民法、アメリカの工作による日英同盟の破棄、ABCD包囲網など。最後には、ハルノートのような日本がとても飲めない無理難題をわざと突きつけた。こんなものを突きつけられたら、バチカンのような小国でさえ銃を取って立ち上がっただろうと言われる。ちなみにハルノートについて、東京裁判における当時の東郷外相の宣誓供述書にこうある。

 「我々は、アメリカは明らかに平和解決の為の合意に達する望みも意思も持っていないと感じた。けだしこの文章は、平和の代償として日本がアメリカの立場に全面的に降伏する事を要求するものであることは、我々にも明らかであり、アメリカ側にも明らかであったに違いない。(中略)この挑戦に対抗し、我々自らを護る唯一の残された道は、戦争であった。」

 終戦後まもなく(1947年)出版された「真珠湾―日米開戦の真相とルーズベルトの責任」によると、ワシントン中枢から現地司令官宛ての電報で、「先に仕掛けさせよ、それまで手出しはするな」と記された公文書が存在する。また、1940年10月7日の日付のある、海軍情報部極東課長の報告書に、「日本を公然たる戦争行為に誘い込む」とあり、結果から見るとアメリカの方こそ、日本を戦争に巻きこむ機会を覗っていたことは、明らかである。こう言う事実を書けない事が、「アメリカの作った」日本の教科書の限界であろう。この点も教科書問題の重要なポイントのひとつである。(注)

(注)

 日中戦争についても、これに類する誤解がある。一般には、日本が中国を侵略したとしか理解されていないのではないか。一昔前の歴史解説書には、「日本の軍部が、蘆溝橋(北京の郊外)における軍事衝突を利用して、戦線を中国全土に拡大した」と異口同音に書いてある。この銃弾は、「日本側から発射された」と言うのが戦後の定説であった。理由は、後に触れるが「支那事変は、全て日本軍の陰謀で起こされた」と言う判決が東京裁判で下ったからである。しかし、真相は全く違う事が、さまざまな資料から明らかにっており、定説はすでに入れ替わったと言って良い。
(田原総一郎氏も、「現在では、中国側の発砲と言うことが定着している」と述べている。)

 詳細は他の章に譲るが、昭和12年7月7日午後10時、最初数発の銃弾が、蘆溝橋付近に駐屯していた日本軍の中隊に撃ち込まれた。(正式な部隊名は、支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊、中隊長・清水節郎大尉)この時日本側は、中国側に軍使を派遣することで全く応戦していない。翌8日午前4時に再び発砲があったが、この時も事件の拡大を恐れた日本側は直ちに応戦していない。すると午前5時、中国側が本格的に攻撃を開始したというのが真相である。少なくとも、日本側は、最初に攻撃を受けてから6時間以上も一発も応射していない。しかも、両軍衝突後、わずか4日目に現地で協定を結び事態を収拾している。
 日本側がしかけたものでは無いと言うもう一つの根拠は、当時北京周辺に駐留していた日本軍は5千人程度であり、しかも、その配置は蘆溝橋に備えたものではなかった。これに対して、宋哲元率いる中国第29軍は、少なくともその10倍の人員を擁しており、日本日本側があらかじめ計画して発砲事件を起こしたとは、とても考えにくい事件を起こしたとは、とても考えにくい日本日本側があらかじめ計画して発砲事件を起こしたとは、とても考えにくい事件を起こしたとは、とても考えにくいことである。
(にもかかわらず、東京裁判で、一方的に日本に責任を転嫁する結論が出されたのは、どのような根拠があったのだろう?また、戦後の学者が、この判決を好んで流用したのはなぜだろうか?読者の皆さんにもお考え頂きたい。)
 蘆溝橋の軍事衝突を日中の全面戦争に拡大したのは、実は蒋介石である。7月7日、当初、北支(北京を中心とする中国北部)で起こった小規模な軍事衝突は、8月13日、蒋介石が数万の国民党軍を蘆溝橋と全く関係無い上海に集結させ、日本人租界にいた居留民を包囲したことから中支(上海、南京を中心とする中国中央部)に全面展開することとなった。当時上海には、日本だけでなく欧米諸国がそれぞれ租界を持ち、その中で居留を認められており(フランス租界が最も高級地)、自国民を護る軍隊の駐留も認められていた(最大の居留者はアメリカ人で居留民約4000人)。蒋介石には、敢えて戦場を上海に移すことにより、欧米諸国の関心を呼ぶ意図があったと推測される。中国側の記録では、日本人居留区を包囲した国民党軍兵士は8万人とされており、攻撃を受けた上海の日本側は、当初わずか3000人の海軍陸戦隊のみで充分な装備がなかった(注)そのため、内地に援軍を求めざるを得なかったのである。(読者は、8万人の中国軍に包囲され、殲滅される立場に立たされた人々の恐怖を理解しなければならない。)
 故に、当初北支事変と呼ばれた紛争も、支那事変(すなわち全面戦争)と改称せざるを得なくなったのが実情である。蒋介石は、上海に戦線を拡大するにあたり、日本と全面戦争を構える事を公言しており、(「抗戦中の全将兵に告げる書」他による)したがって、日中の全面戦争は、日本の軍部だけが好んで構えた事ではないことを記憶されたい。

(注)

 上海戦に参加した中国軍(国民党軍)は、チェコ製機関銃,ドイツ製高射砲、迫撃砲、野砲、重砲等の兵器と砲弾を豊富に持っており、日本将兵の証言にも「中国兵の去った後にはザルでかかえるほどの弾が落ちていた」とある。

 チャーチルの度重なる参戦要請に対し、ルーズベルトは、議会の決定が無ければ動くに動けなかった。しかし、当時アメリカの参戦に対する世論は、あまり盛り上がってはいなかった。そこで、日本を追い詰め「日本から戦争をしかけさせる」ようにすれば、アメリカの世論はいやがおうでも盛り上がると考えたのである。運命のその日、日本は真珠湾を「騙まし討ち」する形となってしまい(注)、「卑怯なジャップの騙まし討ち」と言う一言で、たちまちアメリカの世論は沸騰した。これでアメリカは、ヨーロッパ戦線に遅れること2年3ヶ月にしてようやく第2次大戦に突入した。
 逆に日本は、昭和16年12月の開戦ぎりぎりまで外交ルートによる和平を模索していた。しかし、今日の資料によれば、日本側の苦悩は「最初から無駄であった」と言わざるを得ない。しかしそんなことは、当時の人達にはわかるはずも無かったのである。

(注)

 日本は最初から、「騙まし討ち」を狙ったのではない。本国から最後通牒の電文が送られた前夜(現地時間12月6日夜)、ワシントンの日本大使館では、寺崎英成書記官(後の「昭和天皇独白録」記録者)の送別会が行われた。その後、電信員は全て職務に戻り、午後9時半から翌7日深夜にかけて、対米覚え書きの13部まで解読した。14部がまだ来ていなかったので、当直員を残して各自宿舎に帰った。7日朝7時から8時にかけて、数通電報が配達された為、直ちに電信員を呼集したが、宿舎に帰った直後の為すぐに集まらなかった。午前10時頃から「至急」とあるものから解読したが、大臣、局長からの慰労電、前の電文の訂正が先に解読され、肝心の午後1時までにアメリカ側に手渡すべき電文は、午前11時になってやっと解読された。当時タイプの打てる高等官職員は、奥村書記官だけで、度重なる修正と時間が差し迫ったあせりの為ミスタイプが続出し、午後1時の会見に間に合わない事になった。
 驚いた事に、そこで来栖、野村両大使は、午後1時の会見に遅れる旨をアメリカ側に連絡した。結局午後2時5分に国務省についたが15分待たされて、2時20分にようやく覚書を手渡した。このため、真珠湾に第一次攻撃隊が突入した午後1時25分から約1時間遅れてしまったと言われている。

 なぜ、このような危機迫る時に、(機密保持の為と言われるが)大使館に充分な要員がおらず、また大使館内に危機感がなかったのだろうか? それから、この一件は昨今、大使館員の怠慢とだけ言われている面があるが、東京裁判で述べられた証言によれば、本省からの打電の仕方も悪いと言わざるを得ない。それにしても、時間が無いのなら、なぜとにかく国務省に出向いて口頭で説明し、できた分だけでもアメリカ側に手渡さなかったのか? 最後通牒は、英文で書かねばならないと言う法律は無いはずである。むしろ、指定された期限に間に合わない方がよほど重大な問題である。この遅れによって、日本は永久に「卑怯な騙まし討ち」のレッテルを貼られ、アメリカに「正義の戦争」と言う大義名分を与えてしまった。
 アメリカではこの日を「A Day of Infamy」と言う。「醜聞の日」、または「国辱の日」とでも訳すのが適当だろうか?
 このミスを犯した大使館員たちは、戦後何らのとがめも受けずに栄達を遂げている。それにしても、来栖、野村両大使が到着した2時5分には、すでに真珠湾が攻撃された事はアメリカ側に伝わっていたはずであり、さらに15分待たせたのは、通告が一時間くらい遅れた事にしないと、騙まし討ちと呼ぶには充分でなかったためであろうか?
 (上記は、東京裁判における結城一等書記官の証言に基づいている。別の説に、送別会のあと実は大使館員は全員帰ってしまい、翌朝出勤した海軍武官が玄関に突っ込まれた電文の束を見つけ、大使館員に連絡したと言う説がある。電文は、専門員でなければ解読できない。いずれにしても、海軍の機動部隊がハワイに迫る緊迫した状況下に大使館員によるパーティーが開かれていたことは事実であり、この不手際について責任が明確にされていない事も事実である。)

 真珠湾の鮮やかな奇襲作戦は、いたくアメリカのプライドを傷つけた。このためいつまでも、「リメンバーパールハーバー」と言われている。ちなみに、大東亜戦争(太平洋戦争)の攻撃開始は、陸軍のマレー上陸作戦の方が時間的に早く、しかも英国に対して最後通牒も何も渡していない。しかし英国が、それを後日「マレーの騙まし討ち」と呼んだ事はない。この事からも、当時最後通牒や宣戦布告が戦争開始にあたってさして重要な問題とされていなかった事が分る。
 

 結果的に日本が負けたため、日本の立場は否定され、連合国の立場で見た歴史観、あるいは連合国の正義だけが残って、今日まで深く長く日本人の意識を支配している。考えようによっては、とにかくまず勝ちさえすれば、「大義名分は後からいくらでも付けられる」ものかもしれない。例えば薩長が勝利した結果、新撰組が逆賊と呼ばれるようになったようなものである。正義の軍隊が勝つのではなく、勝った方が正義の軍隊となるのだ。
 敗れた日本に対しては、贖罪の意識を植え付けるための試みが、東京裁判以降、今日まで脈々と続いてきた。一つの例をあげれば、原爆を落としたわけでもないのに、短期間に30万人などと言う虐殺が本当に可能であったかどうか、大いに議論のわかれる「南京大虐殺」は、「史実」として日本の教科書に書かれ、逆に、日本の居留民が、筆舌に尽くしがたい残虐な方法で多数虐殺された「通州事件」(昭和12年7月29日、北京の東方、通州で起こった事件)については、文部省の検定意見がついて「我が国の」教科書に載せられないという、摩訶不思議な状況は、今日の日本人の精神的敗北を象徴している。(注)

 

(注)

 通州事件は、事件後直ちに救援に向かった日本軍守備隊により、詳細な記録が残っており、「事件直後から」新聞報道がされている。(ここが南京事件との違いである)要約すれば、数千人と推測される中国保安隊に襲われ、北京東方、通州城内の日本軍守備隊(140名)は、必死の防戦空しく全滅し(給仕の少年まで銃を取って闘った跡がある)、その後に残された住民260人が、筆舌に尽くしがたい残酷な方法で虐殺されている。14才から40歳くらいまでの女性は、全員強姦された上、陰部を刺されて殺され、その他、目玉をえぐる、内臓を掻き出す、子供の指をそろえて切り落とす、針金で数珠つなぎにする、生きたまま皮をはぐ、手首足首を切り落としてばらばらにする、口に砂をつめて窒息させるなど、「日本人には考えつかない猟奇的な方法」で殺害されている。斧で顔をぐしゃぐしゃにされた人以外、一人一人の検死資料も残っており、記録を見ると胸が押しつぶされる気がする。

 また誌面に限りがあるので書ききれないが、満州から引き上げてくる無防備な日本開拓団の人々に対し、ロシア兵も八路軍(中国共産党軍)も朝鮮八路軍(注)も暴虐の限りを尽くしている。後からやって来た国民党の正規軍も格好は良かったが、賄賂や婦女暴行は日常茶飯事だったという。筆者の親戚に何度か捕らえられたが脱走し、最後には親切な中国人にかくまわれて奇跡的に一命を取り留めた人がおり、詳しい手記を残している。
 日本女性を連れ去って強姦する、それから中国残留孤児には「父親とはぐれ」と言うのが良くあるが、これははぐれたのではない。父親は連行されて虐殺されたのである。この親戚は、中国共産党軍が、開拓団の団長や日本の官吏であった人々を、川原に引き出して銃で撃った上、銃剣で蜂の巣のように突き刺したり、首だけ出して生き埋めにしておいて、死ぬまで軍靴で顔面を蹴り、なぶり殺しにする所をその目で見たと書いている(原文には犠牲者の名前も書いてある)。


(注)朝鮮八路軍

 中国の八路軍(共産軍)に対して、当時朝鮮の義勇軍をそう呼んだもの。手記の前後には、金日成に率いられた「李紅光支隊」とある。朝鮮八路軍に捕らえられた日本人は防空壕の中に放り込まれ飢えと寒さと拷問で殆ど死んだ。朝鮮八路軍のやり方はヒステリックで「36年の恨みだ!」と殴る蹴るの乱暴の限りを尽くし、男が拘置されている間、女を陵辱した。このため自殺した主婦もいたと言う。

 避難民の多くが日本を目指した中継地点に通化の街があり、筆者の親戚はここで八路軍(中国共産党)に捕らえられた(通化というのは、中国と朝鮮の国境付近で中国側の都市)。国境に近かった為、武装した朝鮮人義勇軍が日本人狩りをしていたという。

 通化事件

 戦争が終わっても、引揚者が無事に日本へ帰ることは容易でなかった。日本人の一部が国民党と組んで八路軍(共産軍)を攻撃したという理由で、昭和21年2月3日早朝、大規模な日本人狩りが行われた。戦前の中国が一つだと思っている日本人にはなかなか理解できないが、蒋介石の国民党と毛沢東の争いは根深いものがある。筆者の親戚が自らの体験を記した手記によると、3千人とも4千人ともつかない日本人が、零下30度の寒さの中、両手を上げさせられて八路軍(共産軍)に銃剣で追い立てられていた。日本人の男16歳から60歳が連行され、先頭から氷の上で射殺され川に投げ込まれたと言う。この列は途中で方向転換したが、親戚は旧通運会社の社宅に100人近くの人と押し込まれた。八路軍は、身動きできず酸欠で口をパクパクしている人達を、窓からライフルで撃ち、足元が血の海になったが死体を外に出すこともできなかった。一週間にわたる拷問と銃殺、あるいは凍死によって軍とは何のかかわりもない民間の2千人近く殺された。戦争が終わって半年経っても大陸ではまだこのような日本人に対する虐殺が平気で行われていたことを今の日本の若者は知らずにいる。筆者の親戚は、自らこの事件で生き残った者の一人として、事件の真相が「日本人どうしの殺戮だった」などと歪められて伝えられていることを嘆いている。

 人民裁判
 中国共産党の本拠地である延安から若い裁判官がやってきて人民裁判が始まった。日本人には馴染みがないこの様子を紹介する。
台の上に日本人が立たされる。満州時代の罪状を民衆に問う。黒山の野次馬の中から「俺達を酷使した」。「俺達を殴った」という声が上がる。裁判長が「どうする」と問うと。「打死!打死!(殺せ殺せ)」と民衆が叫び、これで裁判は終わり。
 その日本人は背中に「南無阿弥陀仏」と書かれ、馬に乗せられて市内引き回しの上、河原に連れて行かれて次々と銃殺されたという。

このとき日本人の共産党員は何をしたか

 通化にはもともと1万4千人の日本人居留民、10万人以上の他の地域からの避難民がいたが、武装解除された日本兵が次々とシベリアへ送られていくのを虚脱した目でながめ唖然とするだけだった。ソ連兵は日本軍が提出した武器を、その場で八路軍(共産軍)に渡し武装させた。国家から見放され、後に残された日本人に対して支配者八路軍(共産軍)と朝鮮義勇軍によって掠奪、暴行、拉致、殺戮の地獄が繰り広げられた。
 このさなかに、「延安からやって来た筋金入りの日本人共産党員」がいたことが、手記には書かれている。彼らが組織した「日本解放工作委員会」は、あるいは「清算運動だ」あるいは「集団訓練だ」と言って、居留民の財産没収、自由拘束、不服従者の人民裁判など弾圧を繰り広げ、しかもスパイ網を確立して全日本人を不安と絶望のどん底にたたき込んだという。彼ら日本人共産党員によって、居留民会長であった寺田氏を始め、通化在住の実業家、著名人約180人が密告されて逮捕、罪状ねつ造の上処刑された。その処刑の様子は先に記したとおりである。戦時中、日本を捨て共産主義の延安に走った彼らは、当時、売国奴として日本人にののしられたが、日本が負けて彼らは逆に英雄気取りであった。「避難民が乞食同然の生活苦に追いやられている時、彼ら工作員は立派な服を着て街を闊歩しており、罪なき日本人を売って得意となっていたことをこの目で見て腹立たしい思いがする。」と書かれている。
 後で再会した開拓団の団長によると、この親戚が生後40日ではぐれた一人娘は、開拓団の医者の手で殺されたとわかった。ソ連が侵入したときには、開拓団には女、子供と病人しかおらず、馬車を仕立てて避難していたら満州人に馬車ごと荷物を全部盗まれてしまった。道中、団長は暴徒に襲われ靴まで脱がされた。食べるものもなく、追いつめられ、子供は乳が出ないため次々と死んでいった。それで開拓団の医者は、これ以上苦しめるより楽に死なそうと女の子に注射をし、死体は箱に入れて他の山積みになった日本人の死体の所に置いてきたという。その後、ソ連兵に捕まって収容所に入れられたが、収容所の内外で開拓団の女性は乱暴され殺された者もいたと言う。団長は、筆者の親戚に「気が済むまで自分を殴ってくれ」と詫びたという。

 また、別の満州引揚者から直接お聞きした話だが、当時小学校で仲良しの女の子がいた。ところが父親が警察官だったため、終戦後、多数の中国人がその家を襲い奥さんと小学生の女の子まで連れ去っていった。同級生の女の子は二度とその家に戻ってこなかった。親子3人が中国人になぶり殺しにされたのである。敗戦国民の悲しさで、誰も助けてあげられなかった。

 これらは、私一人が聞いた事例のほんの一部を紹介しただけであり、終戦後、無抵抗の日本人に対してこのような掠奪と暴行、殺戮が、中国人、朝鮮人によって行われたことは事実である。これは「日本人がやったからやられたのだ」というレベルを超えている。

 もちろん、中国人、朝鮮人の全てが悪人であったわけではないだろう。しかし、軍が戦後のどさくさ紛れに、このような形で何万人もなぶり殺しにされた事実は全く取り上げられず、「怪しげな日本人の加害行為」だけが大々的に取り上げられ、「これでもか!」と言わんばかりに日本の子供達に投げつけられている現状は、公平と言えるだろうか?また中国人や朝鮮人が一方的な被害者で、日本人が加害者だとそんなに簡単に決められるのか?

 「南京大虐殺」について、「あったか、なかったか」という観点からの議論をよく見うける。もちろん、歴史の真相を見極めることは非常に重要である。しかし、この事件の本質は、「あったか、なかったか」と言う観点ではなく、中国、アメリカ、ドイツ、そしてそれを手助けする日本の共産主義者(社会主義者)、あるいは正義漢気取りのリベラリスト、それぞれにとって「南京大虐殺がなぜ必要なのか?」という観点で考えないと理解できないように思う。

 意外なことにマッカーサーは、1950年に起こった朝鮮戦争の体験を通じ、日本の戦争は、「日本が自己の存在を守るため必要な戦争であった」ことを、アメリカ上院の軍事外交委員会において証言している。朝鮮半島は、まさに南下する共産軍とそれを食い止めようとする自由主義陣営とのイデオロギーの対決の場となった。北側が韓国に攻め込んだ際、マッカーサーは国連軍を率いてこれと戦った。その北側には、共産国ソ連が後押しして無限に武器が供給され、また北側が不利になると共産国中国も参戦して北側を支援し、一時優勢であった国連軍を38度線まで押し戻してしまった。この朝鮮戦争は、今だに一時休戦状態で、戦争はまだ終わっていないことを日本人は忘れがちである。しかし、韓国人にしてみれば、「度重なる北朝鮮の軍事的侵入も戦争が終わっていないと言う認識からすれば驚くに値しない」と言うのも納得がいく。
 自分自身が体験してみて、マッカーサーは、「怒涛のように押し寄せる共産主義の防波堤として、日本が孤立無援で戦ってきた」その意味をようやく了解した。驚くことにマッカーサーは、朝鮮戦争の際、旧満州や中国まで爆撃する必要性を主張している。(結局主張は、議会で退けられたが)
 近年アメリカでも、「もしアメリカが当時日本を追い込まず、アジアにおける防共の役割をまかせておけば、後年、朝鮮戦争やベトナム戦争の泥沼に巻きこまれる事態は起こらなかった」とする意見もある。

 日本人はなぜ怒らないのか。それは、怒ることを忘れるように、あるいは萎縮して、二度と立ちあがれないように、自国の罪ばかりを長い間、「教科書で」教えられて来たからである。この罪の内容は、明らかに後世、この目的の為に創作された虚構が含まれている。そこには報復を恐れ、自分の側には戦争犯罪はなかったかのように、日本人を「マインドコントロール」してきた戦勝国の思惑が存在する。(筆者自身が、JCメンバーのような若い世代と話しをしていても、その洗脳の深さを痛感する事がある。)

 50年に渡る、「長い洗脳教育」を受けた結果、現代の日本人には、一般的に「歴史の真実から目をそむける傾向」が生まれた。それは、虐殺を否定すると言う意味ではなく、むしろそのようなことは、「多分あったのだろうけれど、あえてかかわりたたくない」と言う傾向である。その結果、国の将来を真剣に憂うる者を、「右翼」の一言で片付けるようになった。健全な議論の封殺である。日本を取り巻く国際情勢は、そんなに簡単なものでも、甘いものでもない。ところが、日本人の頭の中は長い間の愚民政策ですっかりやられてしまった。

出展:わが子に伝える誇りある近代史



筆者に敬意を示したい。
読んで字のごとくだ。


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