昔書いた感性の言葉

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種の保存の観念を根拠にはじまり、法の基礎に種の保存観念を据え置き、伝統保護・文化保護・文明保護等と法の改善をすべき時代です。そこから、平和維持や社会貢献へ伸ばして組み立てていくべきじゃないでしょうか。そうすれば自然と国家安全が保てるようになるはずです。


人類は、生と死に向き合える知的生命体です。
人間の性質を分解しその成分を理解してはじめて、自我から視点を離し、自我と向かい合えるようになれます。教育の深さと果てしなき道ではありますが、精神分解の域まで到達すれば尊い人類の遺産を受け継ぐことができます。人間社会の発展は、そこが発祥の地でもありましたが、長い時を経て、生きることの不思議さと生命の大切さが失われつつあるのかもしれません。


すなわち、無我の境地に真理が置かれ、真理を持った目で社会形成を考えるべきなのです。無我の中で感じることが使命感です。先人達の遺した精神と思考との共有がはかれるとき、私たちは完全に先祖の遺言を受け取るができます。今発達している情報ネットワークのごとく、個体、固としての役割や使命を感じることができるのです。それが人類が本能で持っている社会性であります。人間社会とは、発達した情報インフラのごとくゆるぎないネットワークです。


思うところ、
外交問題による教育問題の諸因はありますが、人間社会の進化は教育問題の解決に着眼して、そこを起点に全てを塗り替える、修正する、改善することに活路があります。


精神なき知は愚か者です。
人間愛を持てない人間を、つくりすぎたと想います。
日本に欠けた尊い教育とは、先祖崇拝と文化保護による種の保存、神について考えない人生に必要なのは先祖崇拝や自然崇拝、足りないのは生きる不思議に対する認識です。
なぜ、何のために生きてるいるのか?人生の意義や存在意義は、考える人類にとって大事なのことなのです。何を喜ぶ人間をつくるか、どんな社会にするか、根本を見直すべき時なのです。

堕落を許せないのです。当たり前の話です。私たちは本能で、進化と繁栄を望んでいるのですから。それを忘れれば社会に敵対する人種を生み出すことになります。人生に最低限必要な理由、意味、意義。それらが大事なことだと思います。それが欠けているから未来を考えない世代が多くなり、そして歩む道も失っているようです。そうして社会が善悪のバランスを失い、非常にバラバラになっている状態だと思われます。進化や種の保存に逆らうことは、神の否定や先祖否定による、愚かしい間違いなのでしょう。

この大きな罪悪をもたらす存在は、地獄へ落ちるでしょう。アメリカの犯罪事情は、アメリカが自身の神を裏切っているからに他なりません。神の前では罪を隠せません。地獄という名の、量子物理学的な表現でいうならば、自然と調和のとれない粒子となって彷徨うのでしょう。科学に対する信仰が、人間を愚かにするのかもしれません。

これらを観念に置き換えた時、
人は精神(信仰や道徳)よりも知(科学や智慧)を尊んでいると読めるのではないでしょうか。
人間社会にとって、この精神を尊ぶバランスは非常に大事なものです。繁栄と生存のための精神ですから。


それから、この大気で覆われた星は一つの大きな繋がりでできてます。
人間がバランスを崩し悪くなれば、星の支配者のバランスが悪ければ、星が大きく崩壊します。個体では、誰がそこまで責任感を追えるのでしょうか?繁栄と未来を既に放棄してるのでしょうか?未来に対する責任は賄えません。

2008年、温暖化だけでも手遅れな事態まで来ています。


神に対する信仰を捨てる時、または自然や先祖に対する崇拝を無くした感性の時代に、
人は滅びゆくのでしょうか。

特に教育の問題は、見える全ての根本に繋がっていきます。
教育改革の邪魔をする邪は、既に死してることに値しています。
教育改革・政治改革、全力を注ぐべきです。


-感性-

生きることに恐怖を感じたことはありませんか?
生きる不思議の答えは深いところにあります。
死という永遠の孤独をご存知ですか?
死を理解しているつもりになっていませんか?
人は生きることを理解できるのだと思われますか?
生と死に対する理解から先に進んでいるはずです。

そして、やがて、今は、
自分を大事にしているでしょうか?
自分を愛しているでしょうか?
自分をどのように愛してるでしょうか?
重要なのは考えられる状態だと思います。

私は宗教ではありません。
ですが、愛とはなにか、生と死とは、生きる意味については、昔、神の言葉としてキリストや仏陀、釈迦等が遺されたはずです。愛は求めず、愛は敬い、慈しみ、愛は許せる心。無形の場所にあるものを人は信じにくいので、偶像を拝むようになるのは時代の流れかもしれません。

神を信じろとは言いません。
大事なことは、未熟な科学を根拠に神を否定するのは愚かなことだと気づくべきことです。神の否定が悪魔の証明になるとは言い切りません、ですが人間にとっての神とは、少なくとも平和を維持し繁栄していくための、導きであったはずです。神を否定できないと思えることが正常であり、思考のある人間の姿ではないでしょうか。
それが未来に希望を持つ人間の姿であったと思います。我々の先祖の誰しもが、信じていなくともなんらかの神に属すことができ、けして無意味に否定することをしなかったはずだと思います。

例え神の存在が私たちにとって、精神的なものであったとしても、遺伝的なものであったとしても、科学がそれを否定できるまで、神の否定をして亡者になってはならないと、私はそう思うのです。


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