必要更新でもある。
叩き台、
つまんで埋める思考のパズル。
ちょっと前に日本人が持つコミュニケーション問題について書くといったので、
コミュニケーション能力について、問題の本質に迫ってみる。
難しい説明なら本能不満とか必要嫌悪とか不和のパターン化した感情チャートやらで分析をかけるのだろうが、疲れてるので割愛する。
不景気を背景に、自分を楽しむ努力が減ってしまってるので社会全体の問題であるけれども、社会問題や犯罪からモラルの低下や無秩序に繋がっていく社会的人間価値の低下であることは明確であり、景気悪化や犯罪問題等の社会問題を背景に据え置くと、コミュニーケーション問題の本質に迫ることができると思う。
そして、コミュニケーション能力欠如等という言葉が使われる頻度が増えてきてる中で、様々な場面で人格否定を行う人たちが増えてきた。今は流行となっている感がある。
健全な人間とは、他者へ干渉することよりも自分に関心を向けている方で、自分と向き合い成長していくのが優れた大人である。つまり感性の出力が他者(外)へ向かうほど、それによって満足を得られる心理の裏側に、欠陥的な頭脳の病理を持っているというわけである。
それが不健全な価値観を持った人間、いわゆる社会を尊ばない人間である。彼らの価値観を紐解いていくと、尊敬する人がいないということが特徴的であったりする。
他人を非難することは自然の一部であり、多少の腐った人間性は無視できるどうでもいいことだ。しかし現実は真実よりも主観がきめていくのである。優れた大人が減り、不健全な価値観が増えすぎたことで人間愛のない人間が社会を代表したとき、国家が音をたてて崩れていくであろう。日本国民が三国人のごとく、愚衆化するであろう。それは戦後教育戦後レジュームの正体でもある。
善や悪といった観念からすれば、至極悪い方向へ傾いてるということだ。実はこういった社会問題は深刻な問題である。病巣が深いところにあるほど手術が困難であり、意識もないほど病気が進行し、末期症状になった時には安楽死を薦めるしかない。
しかし不健全な多数派が社会の主観となっていくことは必然であり自然である。実際、ビジネスでは悪い商売が増えている現実であるし、そういう意味での民主主義社会システムの退化ととれる事件や事故とか不正行為も発生している。あまりにも狂気じみた人間は増加し、もはや阻止できないのが世の中だ。
不健全な価値観が日本が抱えるコミュニケーション問題の社会背景である。思うに古い価値観によって構築された社会システムはすでに利己主義的とされる現代社会に適応してない、だからニュースに見るような不正行為や汚職も多発するのだろう。国家不安や不景気は、不健全な人間性が増殖した結果だということだ。あたりまえの話だ。社会は大勢の人間で成り立っているのだから。これは年金問題や公務員改革の背景でもある。
どんな優秀なシステムが用意されるとしても、それを扱う側の人間の質が結果を作る。つまるところ利己主義に代表される現代人とは、不健全な価値観が持つ非社会的人間・反社会的性質を持っているからではないか、モラルの崩壊はまさにそういった利己主義のなせる業ではないかと思う。
自分で選択してるつもりの利己主義価値観も、本当のところは社会的に選択させられたものでもあるわけで個人責任というよりは、社会の責任・政治責任の問題であるのだが、政治の話しへの脱線は割愛するとして、さらに一歩コミュニケーション不全を作り出す社会システムの経緯を辿っていくと、教育問題が作りだす価値観と若者の心理と頭脳の病理は実に一致する性質を持つことが理解に容易い。ここではコミュニケーション能力不全社会の病理について書く。
価値観などというものは、何を選択するかはまったくの確率の問題ではあるが、利己主義に傾きすぎる教育の原因はあるはずだ。
まぁ、多くの場合、若者の病理や心理に対しては、特にその価値観理解に至るまでは非常に面倒くさいので「今時〜だから」と片付けられて放置。君子危うきに近寄らずというように関与しない大人社会がために、時代が変わったんだと、今時の若者らしいねと片付けることで、日本人のコミュニケーション不全は水面下で深刻化して社会全体としてモラル意識の塗り替えが行われていく。敗戦国だから〜の一言で片付くのかもしれない。
コミュニケーション問題を問題視するのは、この問題の深刻さが法の威厳の破綻に繋がるからである。法の精神や観念といったことを尊重できないとか理解することができないのが利己主義の性質である。利己主義にとって法の観念は程度が悪いほど只のルールと化す。人を殺してはいけない、なぜ人を殺してはいけないか?という価値観は、社会貢献や人類の進歩を志すことが健全であるのに対し、利己主義では罰せられてしまうことや損するからしないという意識になってしまう。つまりコミュニケーション問題の原因は秩序の破壊をもたらすということだ。これは事件である。
マスコミが抱える利己主義擁護や利己主義が悪じゃないという持論を持つ人は、詭弁であるのかもしれないのだ。人間はみな同じではないので、様々な悪意は存在するし、現実は混在している。だが社会のバランスを考えるとき、政治が社会の善意を育てることに対して、人間の悪意の足止め役としての必要悪にも尊いものがある真実がある。それが謀*機関であったり極道もそうだ、利己的でない極道の役割なのだ。必要悪議論はともかく、しかしともて深刻な問題として、問題を抱える人間が大衆の多くを占めてしまえば、全体として人間の退化や様々な場面での暴走が起きるだろう。既に狂気が人間社会に事件や事故の形で姿を見せているではないか。
ちなみに社会貢献意識の低い中国では、バーゲンセールで争うがために死者が出るほどだ。オリンピックでは軍隊の出動を必要としてしまう。群集というより、愚衆という表現はけして悪口の域ではない批判だと痛感する。我々日本社会の犯罪は増加しており、モラル意識も低下している。犯罪に至る理由、その病的な変化は犯罪学からのアプローチを必要とするが、子供・老人・女性、弱者に向けられる事件は年々増加し続けている。
よくマスゴミが感性の変化と言って片付けようとするが実は、感性の変化が犯罪事象を起こすのではない。この場合の変化はただの劣化である。今の時代は、若者が年長者を尊敬することが少なく、多くの人が自身が他者と平等であると錯覚している状態で、脳力の格差が大きいのである。その背景では社会的レベルでの人間の使い捨てや、能力や収入の格差が生まれているのである。これはバランスを悪くして弱肉強食へと向かっていることである。
某IT産業の女社長が「人が人についていかない時代」という認識を漏らし、それが正しい認識であることを証明するように円滑に営まれている。
実に人間としての基礎がないとか、あるいは常識としての基礎がないという人間たちが増えていることが真実であり、コミュニケーション問題の原因は欠陥人間が世に溢れてることにある。政治問題に派生した教育問題による原因が大きい。そして、脳の低脳化と思考の短絡化、社会性が損なわれているというのが核心である。
よく言われるようになってくる、心の問題の時代とか民主主義の堕落の時代である。
さて、人間の基礎とは何かとか紐解くと深い海へ潜る話になってしまうので、ここでは社会性をネックに、抽出された常識のない意識とか良識に欠けたコミュニケーション能力に着目。コミュニケーションや人間の相性分析はとても複雑なもので、最後には複雑な感性に落とし込んで加えて生理的要素も加わり美意識も混ぜるような複雑化は避けて、ああ、めんどくさい。簡単なコミュニケーション不全に至る価値観の性質とその相性に着目。
前置きとして、人間が持つ性質が反社会的な性質なのかそれとも社会を守ることを重視する社会的な性質の人間かどうかは、※反社会的の観念を反会社的として捉えると理解しやすい。
例えば言葉として、やる気のある社員や立場のある社員は社会性のある社員。やる気のない社員や立場のない社員が社会的でないと分類できる。
反社会的な精神構造の人間と社会的な精神構造の人間の間には温度差が生じることがわかると思う。こういった価値観の温度差は、人間関係に大きな溝として影響するということである。
下記は仲良くなれない要素の強い例である。
日本が好き⇔日本が嫌い
美しいものが好き⇔美しいものが嫌い
働くのが好き⇔働くのが嫌い
人生楽しい⇔人生楽しくない
例えば下記なども相性に影響する強い価値観である。
神を 信じる者⇔否定する者
社会的貢献する者⇔そんなの関係ねえ
進歩や成長したい者⇔別に思わない
エッチが好き⇔エッチが嫌い
※勿論現実の相性決定は相当複雑な科学だ。
分解する必要のないことだが、所詮動物。
とにかく持つベクトルが違えば温度差が高い。これが企業内の人間関係においては、まず思想の精神構造が神経的には、大人であるほど歳を取るほど、歳の功といいますように細かい分岐の集合体となっていくのが通常なので、年配の方や上司の立場の方ほど様々に成長されているのに対し、自分が優れていると過信してやまない若造が礼節に欠けていればもう上司とうまく付き合うが困難極まる。
まぁたとえどんなに合う合わないがある人間関係でも、認め合い支え合うのが健全な社会人のコミュニケーションのことである。思想や観念が強いことほど、反発するベクトルを持つ相手との相性に強く影響する。
しかしそれでも、認め合うことができるのが正しい大人のコミュニケーション。
解かっている人にはわかっていることとは、正しい大人とは健全な大人とは、たくさんのことを矛盾したことを肯定できる器のある人間のことである。
ゲーム的だが、社会生活を営む人間の性質をできるかぎり簡単に分類すると、善(ロウ)・(中立)ニュートラル・悪(カオス)という属性に別れる。実はこれが子供の精神構造の話。ちょっと難しいがこの分類の場合、自分の属性を善(ロウ)・(中立)ニュートラル・悪(カオス)のどれにも属することができるようにコントロールできるのが中立な立場に立てる人だ。それが社会的な人間のあるべき姿だった。
コミュニケーション問題を紐解いていくと、どうしても善なる人間性が損なわれている時代だという分析結果になるようだ。ちなみにオタクとかニートの持つ価値観とは、選択的かつ必然的に反社会的ベクトルを持ちやすくなる。それは社会が悪いと社会否定することに繋がる。めんどくさいが、社会が悪いと考えることが悪いのではなく、こういった人間の性質が「社会を良くしよう」と考えていないレベルになることで、様々な分野での社会の衰退が現実化する。
ちょっと難しくなってしまうが、正しい社会性が必要とされるのは、健全な社会性を持つ人間が持つ、正しい客観的視点を必要とするのが社会活動であるので、正しい客観的観測能力がなければ、活動の結果は社会破壊へと導かれる。因果応報とは、ご先祖さまもよく使ったもんだその通りである。
社会性とは健全さと同義的なのだ。求められる人材として必要とされる要素だ。それ相当の複雑さを飲み込める人間でなければ、とてもじゃないが国際社会の競争では生き残っていけない。それは世界の現実である。
主観を企業にうつしてみるならば、優れた企業戦士が減っていることも解かり易い。
つまり人としての基本・基礎ができていないと、客観的に見ているつもりの独善的利己主義者となってしまう可能性が高く、利己主義や個人主義という類は、まさに精神教育の欠落に起因する社会性の破壊であるわけだ。比較すれば如何に利己主義や個人主義を価値観の代表に選ぶ頭脳レベルが、短絡的回路であり脊髄反射的刷り込み価値観ぶりが理解に容易いことだろう。そしてそのような人間を我々の社会が量産していく。
ヒントになってしまうが、企業の持つ理念や価値観とうまくリンクしてゆき、価値観等をなるべく全てを飲みこんでバランスをコントロールするのが、求められる人材なのだ。面倒くさいけどこういうのが大人の基礎の話。企業の業務の性質にのっとって正しく分析できるなら、それに対して否定的要素の少ない人が採用されやすい。技術として偽装してしまうと人間性を図るのが難しくなってしまうもんだなぁと考えてみると、偽装できる人間も有用的である水準を乗り越えていることに気づく。
私の所属していた会社では、採用業務に際してはこういった性質を妥当なシステムを通して人間を数字化して捉えていく。もちろん予知や予測といったシステムの運用するは運用する人間の能力に委ねられるし主観も入るから雑になることが多い。そうして善なる性質の方で客観視に問題なければ、能力的な問題があるかないかを図り社員として受け入れる。あるいは新人として育てていく。
馬鹿な学生でも私のいうことが理解できると言うに違いない。そしてそんな完璧で良い感じの人材なんてなくて皆それぞれに一クセも二クセもあって、人間社会は十人十色に染まっている。それぞれの形でやる気をだせばとかと考えてしまう人ほど終始自己肯定に執着しており、そんなことはみんな解かっている。そのハードルを乗り越えるための話をするには、人間であり人間を分解している観点から教育を施すしかない。
ひどく疲れる作業である。教育問題に起因するコミュニケーション問題はそういう意味で、企業に人材教育を放棄させてしまった事実がたくさんある。
さて、核心の問題であるが、基本すらできない学生・大人達が増えてしまったのが、現代の不幸だ。礼儀や認識に欠ける低脳化が進み、仮に未熟人とか害虫と言っておくが、もちろん社会は完璧ではないから今も昔もそれは存在するのだが、害虫が増殖しやすいのは自然の摂理のように、低脳ぶりは無視できないほど悪化してる。
無視でいない低脳ぶりとは、もちろん犯罪の増加のことである。
それにしても、現在の未熟人の低脳ぶりは、勧善懲悪的短絡論理教育と仮に定義するが、思考を単純的すぎてまとまらず弊害を持つ輩が眼にあまるほど増加している。要するに社会を大事にしようとする意志のない、基礎が出来ていない人間が増殖し、人間嫌いが人間社会に増えているのだ。その不満は社会問題へも波及する。
中略
現代人の低脳化ぶりというのは、未熟人の低脳ぶりとは、細かい分岐の集合体や矛盾の集合体を理解する能力に欠けすぎているということなのだ。
低脳とは何か?低脳とは理解できないことが多いのだ。正確には「認識できないレベル」にいるということなのだ。何がいいたいかというと、未熟人は大人と同じ土俵に立つのが難しいのだ。協議することが難しくなっていることは様々の企業で事実化してる。世代別のコラボレーションが難しくなってきているのは、理解力の無さが原因であることを示す。
物事を狭義的に捉えて生きている未熟人ほど、平等と看板を掲げつつも、他者に「馬鹿」という烙印を押し付けることで自分の価値観を守る。つまり、比較的短絡的な思考回路になっているのが問題視されるべき未熟人。時に社害人等と呼ばれるのだ。それが冒頭の誹謗・中傷し合う輩の正体でもある。
人間の有り方なんて指定されるべき内容じゃないかもしれないが、人間社会の進歩は人間の優秀さが作り上げてきたものなのだ。それを破壊する社会だから退化を言わざるをえない。
コミュニケーション問題は人間関係そのものであり、ノリや気分と勢いだけで培ってしまう現代ッ子コミュニケーションは病的とすらなってくる。病的な部分を指摘して問題視する声は少ないが、男女間のコミュニケーションではわかりやすいほどナンパ的になっていて、擬似コミュニケーション化している。
だるい
うざい
めんどくさい
等のネガティブにより、精神的な交流は疎外されてしまった。
精神教育を排除してきた戦後洗脳教育の側面でもある。
結果として欠陥人間を量産して、晩婚や理解不足や信頼不足を量産して、混沌とした社会を作り出す。さて、肝心な信頼感よりも、今や一番モテル人というのは、楽しくしてくれる人。話してて楽しい人である。直感的に気づく人は気づくと思う。ノリとテンション、気分で決まる、思わせたもん勝ちの性的モラルの崩壊である。売春件数はウナギのぼりだ。
昭和の時代の硬派は消えてしまったのかもしれないし、硬派な人はただの奥手な人とされる。けして硬派を気取る人による愚痴とするつもりはない、言いたいわけではない。
嫌われてもいいという健全なコミュニケーションが排除され、同調と偽りが信頼を生むという認識に変わってきてる。要はコミュニケーション能力のない世代が、擬似コミュニケーションを正当化して社会を催してきてしまったのだ。
このことは自分と違う趣味、違う思想の友人を作りにくい世情でもある。痛いことだが、それは真実である。我が国では特に顕著だ。離婚の増加や、子作り件数は減らないが健全な家庭減っている社会問題はこういったことが病巣である。フリーセックスの時代は男性諸君には喜ぶべきことかもしれない。だが社会は壊れていく。
さて、コミュニケーション問題の根は深く、人間関係の軽薄さに拍車をかけて社会に根付いてる。軽薄になるほど、心のやり取りが減ってゆき、満足を得られない心の空虚感が社会に蔓延している。
私はそれを指して「見えない胃袋」と呼ぶことにしている。
心のやりとりができないのが現代的ノリコミュニケーションの基本だが、依存やら分裂やら、副産物的精神病が発生してそれを満たすためにコミュニケーションが継続される。けして見えない胃袋を満たすわけではないので人間関係の破綻に終わる関係が多い。女子高生に聞く突き合った彼氏の数などは、年々ネズミ算式成長を続けてる。
素直で正直なコミュニケーションがとれない輩が増えすぎて、個々に精神的病因を生み出す。この精神文化は犯罪率の増加に波及する。病気が生み出される、病気によってコミュニケーション能力を補完しようとするのが現代人のコミュニケーションとなる。以上が現代病といわれることの正体。そして敗戦に起因する・・・。
そういえば、政治の悪化に窮まって経済の悪化が加わった時に、精神病で誤魔化されてた教育の悪化が混ざって科学反応を起こすようで、異常な殺人事件や幼児虐待として、異常化が公共の事実化してるのは世相の通り。
思うところ、結局のところ政治要因による外交問題や教育問題は、清き善き人間が生産されなくなっていくとここまで社会破壊に繋がっている。今の政治家の子孫は五体満足に生きながらえるのだろうか。社会が暴動に走るほど壊れたら、狂気を止める要素すらマイノリティ。
例えばオタクやニートに分類される人たちは極めて反社会的性質が強く、陰湿で攻撃的であった場合、極めて差別者と成りえるしそもそも人間失格である。
まぁ、いったいぜんたい、正しい人間関係とか関りとは何だったか?私で言えば、家出した時に、下心があったのかもしれないが、朝の二時頃に先生が車で迎えにきてくれて、黙って話しを聞いてくれていたこととか、あるいは学生時代に部活を辞める時の、先輩に納得してもらえるまで叩かれたこととか。
めんどくさいけど、深い繋がり。
そういうものではなかったかな〜?
もし公共とか公平とかの精神や平等の精神を観念レベルで備えていないければただの犯罪予備軍だ。そういう観念の子たちが増えてくと、大人も自己防衛のために接しかたを変えなければいけなくなってくる。悲観的な内容になってしまったが、
これは事件なのだよ。
端的には政治要因から派生する教育問題と、そこから育まれた人間による社会破壊が行われてることには、成長しない人類の欠陥品世代が増えたことが原因にあり、教育問題は深刻である。人間の進化の側面で退化も進行していることは事実だ。
複雑な問題を解決できない社会になっているときは、動乱の前触れであることを予知として認知すべきだと思う。
我は問う
歴史を敬うか
先祖を敬うか
そもそも人間の存在を敬っているか
生よりも死を選ぶ時代なのだろうか?
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